昔にタイムスリップシリーズ② 1985年春の羽田空港

歴史シリーズ

現在とは大きく異なる羽田空港

前回のタイムスリップシリーズでご紹介したANAの767-200に乗って、父は秋田空港から羽田空港へと向かったようです。というわけで、第2弾となる今回は、羽田空港で撮影された写真のご紹介です。1985年の羽田空港は、現在とはその様子が全く異なります。羽田空港の「島」自体も現在の形とは大きく異なるため、まずは当時の羽田空港の概要を振り返りましょう。

上に、国土地理院地図の空中写真(1984年~1987年)に私が加筆したものを載せました。現在もしっかり残っている当時の主要な施設は、整備場地区の一部くらいでしょうか。当時3本あった滑走路は、全て沖合展開事業により、新しいもの(現滑走路)に改められ、現在のB滑走路、RWY04側の末端付近に、駐車場やターミナルビルがありました。現在の空中写真と比較するとわかりやすいですが、現在の第3ターミナルは、当時の旅客ターミナルよりも海側に位置しています。

他にも特記すべき点としては、3本ある滑走路のうちの旧A滑走路(15R-33L)に関して、一部をエプロンとして使用していた点が挙げられます。そのため滑走路は実質旧B滑走路(04-22)、旧C滑走路(15L-33R)の2本での運用となっていたようです。

モヒカン塗装から現行塗装への過渡期

それでは早速写真のご紹介です。

ANAのBoeing 747SR-81(JA8158)です。旧C滑走路のRWY33Rに着陸したシーンとなります。

ANAの747SRは1978年より導入開始となり、1983年までの間に17機が導入されました。ライバルとなるJALでは、747SRは7機のみの導入にとどまっているため、同一形式だけで見ると2倍以上も導入されたことになります。さすが国内線が主力であった航空会社だけありますね。(JALの場合は、747-100B、747-100BSUD、747-300SRなどSR以外にも国内線仕様の747classicがありましたが…)

1982年6月に導入された写真のJA8158、JA8158と聞くと、その特異な経歴を思い浮かべる方もいらっしゃるように思います。導入から約10年が経った1993年に、NCA(日本貨物航空)へ移籍となったのです。勿論旅客機のまま移籍したわけではなく、貨物機に改修された上での移籍でした。現在も旅客機から貨物機への改修は、747BCFや767BCFで頻繁に行われており、貨物機へ改修された場合は、窓が埋められた状態になっていますが、JA8158に関しては、窓が埋められないまま貨物機として運航されていました。

同じくモヒカン塗装の747SRを正面から見ます。モヒカン塗装は正面から見てようやく「モヒカンっぷり」がよく分かりますからね(笑)

塗装は旧塗装ですが、接続しているタラップ車は現行塗装の物。ANAよりもはるかに短いスパンで塗装変更が行われているJALグループでは、新旧ロゴが混ざっている光景もよく目にしますが、ANAでは1982年を最後に大規模な塗装変更が行われていないためこの混合具合は、だいぶ違和感があります。

羽田空港の第2ターミナルが開業して以降は、747運航便でバスゲート発ということは殆どなくなったように思いますが、当時の羽田空港はボーディングブリッジが殆どなく、大型機小型機問わず、特に地方便ではバスゲートからの出発が殆どだったようです。因みに、1985年3月の羽田発ANA便で、747が投入されていた路線は、以下の通りです。

・札幌線…10往復中9往復

・大阪線…6往復中5往復

・福岡線…7往復中5往復

・那覇線…4往復中3往復

・小松線…5往復中4往復

・熊本線…3往復中2往復

・長崎線…3往復中2往復

・鹿児島線…4往復全便

(※鹿児島線を除き、各路線で747以外で運航される便については、トライスターでの運航)

以上です。当時、羽田線があり且つ747が就航可能な2,500m滑走路備えていた空港は、他に函館、秋田、大分などがありましたが、これらよりも需要が大きそうな空港には基本的に就航していたことが分かります。各路線とも今では考えられないような便数の少なさですが、羽田空港の発着枠が少なく、少ない便数を大型機で飛ばして供給座席数を確保していたということが、如実に表れていますね。

地方民の憧れ 日航ジャンボ

整備場地区から旧B滑走路を横断してターミナル側のエプロンへとトーイングされてくるBoeing 747-246B(JA8122)。当時のJALは、国内幹線と国際線のみの運航だったため、地方在住者にとってJALの機体は憧れの存在だったようです。

このJA8122ですが、調べるところによると、導入間もない1975年にアンカレッジで事故(誘導路でスリップし滑落)を起こしていたという経歴の持ち主なんだそうです。アンカレッジで発生したトラブルは何件かありますが、この事故に関しては高緯度のアンカレッジが災いした事故と言えますね。ウィキペディアなどでも事故発生時の写真が掲載されており、見ていただければわかるのですが、そこまで機体への損傷がなかったことや、導入間もない飛行機であったことが幸いし、その後ラインに復帰したそうです。(だからこの写真があるのですがw)一時期は国内線機材として運用に就いていたそうですが、この時も整備以外で羽田空港に用事があったのかは分かりません。

この当時の日本航空の塗装では、国内線機材と国際線機材を見分ける方法があり、L1ドアの上側に小さく「日本航空」と漢字で書かれていれば国内線機材、そうでなければ国際線機材となります。このJA8122は、747-200Bという形式名からもわかるように基本的には国際線機材ですので、L1ドアの上には何も書かれていません。

ANA現行塗装を初めて纏った飛行機

続いてはみんな大好きトライスターです。写真のLockheed L-1011(JA8521)は1978年7月の導入です。現行塗装のトライスターは、「全日空」の漢字ロゴの後ろに、「All Nippon Airways」の英文ロゴが入っている方が、個人的にはなじみ深いのですが、当時は国際線進出前ということもあり、英文ロゴは入っていなかったようです。

現在に渡って受け継がれているANAの現行塗装ですが、ANAの創立30周年を記念して、1982年に発表されました。初号機から現行塗装で導入された初めての機材は767-200ですが、初めて現行塗装を纏った機材は、こちらのトライスターでした

世間的には、ロッキード事件という明るくない印象や、747導入までの繋ぎという見方がされがち(であるように感じる)なトライスターですが、ANA初のワイドボディー機、ANA初の国際線定期便担当機、現行塗装を初めて纏った機材、導入に合わせてCAの制服一新(トライスタールック)等々、ANAの明るい歴史の要所要所に絡んでくる飛行機でもあります。

羽田発着で大活躍だったYS-11

今回最後に取り上げるのはYS-11。言うまでもなく戦後初の国産民間旅客機であり、国内の主要な航空会社だけでなく、海外の航空会社でも運用された実績があるというのは周知のとおりです。写真のYS-11(JA8730)は、1969年3月の導入、ANKに移籍後1998年まで運航した後、さらに海外へと売却されたようです。

ANAの現行塗装であるトリトンブルーのYS-11は、子会社のANKで2003年まで運航されていましたが、ANA本体としての運用は1991年に終了しました。この写真の撮影は1985年ですので、比較的末期でも羽田発着でYS-11運航便が残っていたことになります。当時の羽田発着のYS-11運航路線は以下の通りです。

・八丈島線…6往復中1往復(残り5往復は737-200)

・高松線…4往復全便

・岡山線…2往復全便

・鳥取線…2往復全便

以上となります。八丈島線は除き、ジェット化がまだ行われていなかった地方空港路線用に残っていたと言っても過言ではない就航地しかありません。逆に言うと、これらの空港ではYS-11に頼るほかありませんので、YS-11の独壇場だったわけです。これらの空港では、鳥取空港が1985年夏に一足早くジェット化、その後1988年に岡山空港、1989年に高松空港がジェット化され、羽田発着のANA就航路線は全てがジェット化されました。

YS-11の強みは、整備が不十分(滑走路長が短い)な日本の地方空港でも運用可能という点にありました。しかし、地方空港でも滑走路が延長されるようになると、YS-11よりも速く、輸送力も大きな飛行機で運航した方が効率がいいことは目に見えています。地方空港の拡張が、羽田空港発着のYS-11運航便に終止符を打つことになりました。(離島路線以外ではJASの南紀白浜線が1996年まで、離島路線でもANK運航の大島線、三宅島線は、その後も10年程YS-11で運航されていましたが…)

今回も長々と昔の写真のご紹介でしたが、いかがだったでしょうか。1985年の羽田空港編はもう1弾ご用意しておりますので、またそのうちお付き合いくださいね。最後までお読みいただきありがとうございました。

(※記事の一部で、ANA時刻表1985年3月16~31日版、イカロス出版 月刊エアライン1988年11月号、2010年2月号、JTBパブリッシング YS-11物語 を参照)

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